「いつものパンを、もっとお店のような深い味わいにしたい」。そう思ったことはありませんか?レシピ通りに作っても、なんだか風味が物足りない、翌日にはパサついてしまう……。そんな悩みを解決してくれる魔法のような存在、それが「老麺(ろうめん)」です。
名前だけ聞くと、なんだか難しそうな専門用語に聞こえるかもしれません。実はこれ、パン屋さんではごく当たり前に使われている「旨味の塊」のような生地のことなのです。この記事では、老麺の正体から、お家で簡単に作れる方法、そしてパン作りへの取り入れ方まで、初心者の方にもわかりやすく丁寧にご紹介していきます。
老麺(ろうめん)とはどのような生地なのか

パン作りのレシピ本や専門書を読んでいると、ふと目にする「老麺」という言葉。字面から「古い麺?」とイメージしてしまう方もいるかもしれませんが、これは中華麺のことではありません。パン作りにおける重要なテクニックの一つで、フランス語では「パート・フェルメンテ(Pâte Fermentée)」と呼ばれ、世界中のパン職人に愛されています。
老麺の基本的な定義と意味
老麺とは、一言で言えば「発酵を終えた古いパン生地」のことです。具体的には、前回のパン作りで少しだけ残しておいた生地や、老麺として使うためにあらかじめ作って発酵させておいた生地のことを指します。小麦粉、水、塩、イーストという、パンの基本材料を混ぜ合わせてしっかりと発酵させたもので、すでに生地の中で酵母菌や乳酸菌が活発に活動している状態です。これを新しいパン生地(本捏ね)に一部混ぜ込むことで、パンに独特の風味や食感をプラスするという製法に使われます。
イーストや天然酵母との関係性
「イーストがあればパンは膨らむのに、なぜわざわざ老麺を入れるの?」と不思議に思うかもしれません。確かにイーストはパンを膨らませる力が強いのですが、短時間の発酵では醸し出せない「複雑な味」があります。老麺は長時間発酵しているため、イーストだけでなく、粉に付着していた乳酸菌なども働いています。これらが作り出す有機酸(旨味成分や酸味)やアルコール分がたっぷりと蓄積されているのです。つまり、インスタントドライイーストの「膨らむ力」に、老麺の「熟成された風味」を借りてくるイメージを持つとわかりやすいでしょう。
パン屋さんが老麺を使う理由
多くのパン屋さんがこの製法を取り入れるのには、明確な理由があります。それは「味の深み」と「作業性」の両立です。ストレート法(材料を一度に全部混ぜる方法)だけでは出せない、噛みしめるほどに広がる小麦の甘みや芳醇な香りを、老麺を入れるだけで表現できるからです。また、すでにグルテンができあがっている生地を混ぜるため、新しい生地のつながりが良くなり、機械耐性や伸展性が向上するというメリットもあります。プロの現場では、前日のフランスパンの生地を一部残しておき、それを翌日の生地に混ぜる「ルヴァン・ド・パット(Levain de pâte)」という手法が伝統的に行われています。
老麺をパン生地に混ぜることで得られる具体的なメリット

では、実際に家庭製パンで老麺を使うと、どのような良いことがあるのでしょうか。単に「美味しくなる」というだけでなく、焼き上がりの見た目や翌日の食感にまで、驚くような変化が現れます。ここでは4つのポイントに絞って、そのメリットを深掘りしていきましょう。
独特の風味と深い旨味が生まれる
最大の特徴は、なんといっても風味の向上です。老麺に含まれる乳酸菌が生成した微量な酸味が、パンの味に輪郭を与えます。「酸味」といっても、酸っぱいパンになるわけではありません。塩気や甘みを引き立てる隠し味のような役割を果たし、ヨーグルトやチーズのような発酵食品特有の複雑な奥行きが生まれるのです。シンプルな配合のフランスパンや食パンこそ、この違いが顕著に表れます。
しっとりとした食感が長持ちする
手作りパンの悩みで多いのが「次の日には固くなってしまう」ことではないでしょうか。老麺を加えたパンは、この老化(パサつき)が遅くなります。老麺の生地は長時間かけて水分を抱え込んでいるため(水和)、焼き上がったパンの中もしっとり感が持続します。また、酸性の環境下ではデンプンの老化が抑えられるという科学的な効果も働いています。翌朝トーストしたときに、サクッとした歯切れの良さと、中のもっちり感の両方を楽しめるのは老麺ならではの魅力です。
生地の伸展性が良くなり扱いやすい
パン生地を成形するとき、ゴムのように縮んでしまって伸ばしにくい経験はありませんか?老麺には、発酵の過程で生成された酵素(プロテアーゼなど)が含まれています。この酵素が、新しい生地のグルテン構造を適度に緩めてくれる働きをします。その結果、生地の伸び(伸展性)が良くなり、バゲットのような細長い成形や、複雑な形のパンを作る際にも、無理な力をかけずにスムーズに作業ができるようになります。
焼き上がりの香ばしさが格段にアップ
オーブンから漂う香りは、パン作りの醍醐味です。老麺を使ったパンは、焼き皮(クラスト)の色づきが良く、非常に香ばしく仕上がります。これは、老麺の中で分解されたアミノ酸や糖分が、焼成時の熱で「メイラード反応」という化学反応を強く起こすためです。パリッと焼けた皮の香ばしさと、中身の甘い香りのコントラストは、まるでベーカリーで買ってきたパンのような感動を与えてくれるはずです。
初心者でも簡単!お家で作れる老麺の作り方

「メリットはわかったけれど、どうやって作ればいいの?」という方のために、家庭で作りやすい老麺のレシピをご紹介します。特別な材料は必要ありません。普段使っている強力粉とイーストがあればすぐに始められます。
必要な材料と道具の準備
老麺を作るための材料は非常にシンプルです。基本的にはフランスパン(バゲット)の生地に近い配合で作るのが一般的です。油脂や砂糖が入らないシンプルな生地のほうが、どんなパンに混ぜても味が喧嘩せず、万能に使えるからです。
【老麺の作りやすい分量】
・強力粉(または準強力粉):100g
・塩:2g
・インスタントドライイースト:0.5g(ほんの少しでOK)
・水:65g〜70g
※モルトパウダーがあれば微量加えると、より本格的な色艶が出ます。
生地のこね方と発酵のポイント
作り方は驚くほど簡単です。ボウルに全ての材料を入れ、粉っぽさがなくなるまで手で混ぜ合わせます。この段階では、いつものパン作りのように必死にこねてグルテン膜を作る必要はありません。材料が均一に混ざり、ひとまとまりになれば十分です。
まとまった生地をタッパーやボウルに入れ、乾燥しないように蓋をします。まずは室温(25℃前後)で1〜2時間ほど置き、酵母を少し目覚めさせます。生地がほんのりと膨らみ始めたら、そのまま冷蔵庫(野菜室がおすすめ)に入れてください。ここからが「低温長時間発酵」の始まりです。
前日の余り生地を活用する方法
わざわざ老麺用として仕込むのが面倒な場合は、パンを作ったついでに「次回の分」を取り分けておく方法がおすすめです。フランスパンやカンパーニュなど、砂糖や油が少ないシンプルな生地を作った際に、一次発酵が終わった段階で50g〜100gほど切り分けて保存しておきます。これを「種継ぎ」のように繰り返すことで、家庭ごとの独特な酵母の風味が育っていく楽しさもあります。
失敗しないための老麺の正しい使い方と配合のコツ

自家製老麺が完成したら、いよいよ本番のパン作りに活用しましょう。ただし、適当に混ぜれば良いというわけではありません。バランスを崩すと過発酵になったり、酸っぱくなりすぎたりすることがあるので、基本的なルールを押さえておくことが大切です。
全体の粉量に対する配合の目安
老麺を混ぜ込む量は、新しく作るパンの粉の量に対して20%〜30%程度が黄金比と言われています。例えば、強力粉200gでパンを作るなら、老麺は40g〜60gほど用意します。慣れてくれば40%ほどまで増やすこともできますが、あまり多すぎると生地の管理が難しくなり、酸味が強く出すぎる可能性があります。まずは20%から始めて、好みの風味を探ってみましょう。
本捏ねの水分調整とイースト量
ここが一番の注意点です。レシピに「老麺〇〇g」と書かれていない普通のレシピに老麺を追加する場合、老麺自体に含まれる粉や水分の分だけ、本捏ねの材料を差し引いて計算する必要があります。しかし、この計算は初心者には少しややこしいものです。
一番簡単な方法は、「作りたいレシピの分量はそのまま変えず、老麺を”添加物”としてプラスする」というやり方です。ただし、老麺にも発酵力があるため、レシピのイースト量は気持ち少なめ(0.8倍程度)に調整すると安心です。また、水分調整も重要です。老麺の水分量によっては全体の生地がベタつくことがあるため、水は最初から全量入れず、少し残して様子を見ながら足していくのが成功の秘訣です。
混ぜ込むタイミングと捏ね上げ温度
老麺を混ぜるタイミングは、材料を計量して混ぜ合わせる最初(ミキシング開始時)で大丈夫です。老麺をちぎって細かくし、粉や水と一緒にボウルに入れて捏ね始めます。冷蔵庫から出してすぐの冷たい老麺を使うと、生地全体の温度が下がります。夏場はそれがメリットになりますが、冬場は生地温度が低くなりすぎて発酵が鈍ることがあります。冬場は使う30分〜1時間前に冷蔵庫から出し、常温に戻しておくと良いでしょう。
作った老麺はどうする?適切な保存方法と期間

せっかく作った老麺も、保存状態が悪ければ腐敗したり、発酵力が落ちてしまったりします。美味しく安全に使い切るための保存ルールを知っておきましょう。
冷蔵庫での保存期間と状態の見極め
作った老麺は、基本的には冷蔵庫で保存します。使い頃は仕込んでから翌日〜3日目くらいまでです。冷蔵庫の中でもゆっくりと発酵は進んでいます。3日以上経つと、生地がダレてドロドロになったり、色が灰色っぽくくすんできたりします。また、ツンとする強いアルコール臭や、不快な酸っぱい匂いがしたら使用を避けてください。新鮮なうちは、甘酒のような芳醇なアルコールの香りがします。
長期保存なら冷凍がおすすめ
「毎日パンを焼くわけではない」という方は、冷凍保存を活用しましょう。発酵が良い状態(翌日〜翌々日)の老麺を、1回で使い切りやすい量(50g程度)に小分けします。これをラップでぴっちりと包み、さらにフリーザーバッグに入れて空気を抜いて冷凍します。冷凍すれば約1ヶ月ほどは保存可能です。これなら、週末にしかパンを焼かない方でも無駄なく使い切れます。
解凍方法と使う際の注意点
冷凍した老麺を使う際は、前日の夜に冷蔵庫に移して自然解凍させるのがベストです。電子レンジでの解凍は、熱が入りすぎて酵母が死んでしまったり、ムラができたりするためおすすめしません。もし急ぐ場合は、常温にしばらく置くか、密閉袋に入れたまま流水に当てて解凍してください。解凍後の老麺は再冷凍できないので、必ず使い切りましょう。
老麺と中種法やポーリッシュ法との違いを比較

パン作りを学んでいると、「中種(なかだね)法」や「ポーリッシュ法(液種法)」といった製法も耳にします。これらも老麺と同じく「発酵種」を使う製法ですが、それぞれ目的や特徴が異なります。違いを整理して、自分の作りたいパンに合わせて使い分けられるようになりましょう。
製法ごとのざっくりとした比較
・老麺法:風味・旨味重視。塩が入る。硬めの生地。
・中種法:ボリューム・柔らかさ重視。塩が入らないことが多い。粉量が多い。
・ポーリッシュ法:皮のパリパリ感・軽い食感重視。水と粉が1:1のドロドロ状。
中種法(スポンジ法)との特徴の違い
中種法は、使用する小麦粉の50%〜70%程度を先に発酵させる方法です。主に食パンや菓子パンなど、ふんわりとボリュームを出したいパンに向いています。老麺との大きな違いは、中種には通常「塩」が入らないことです。塩がないため発酵スピードが非常に速く、短時間で種が出来上がります。一方、老麺は塩が入っているため発酵が穏やかで、その分じっくりと旨味が蓄積されます。
液種法(ポーリッシュ法)との使い分け
ポーリッシュ法は、粉と水を1対1の割合で混ぜ、ごく少量のイーストで発酵させる液状の種です。バゲットなどのハード系パンによく使われます。この製法の特徴は、酵素の働きで生地がデロンと緩みやすくなること。焼くと皮が薄くパリッとして、中身(クラム)の気泡がボコボコと大きく開きやすくなります。老麺もしっとり感を出しますが、ポーリッシュ法の方がより「軽い」「歯切れが良い」食感になりやすい傾向があります。
どの製法が自分に合っているか選ぶ基準
どれを選べばいいか迷ったら、作りたいパンのイメージで決めましょう。「噛めば噛むほど味が出る、どっしりとして味わい深いパン」なら老麺が最適です。「ふわふわで背の高い食パンや、柔らかい菓子パン」なら中種法。「皮がパリッとしていて、中が軽いフランスパン」ならポーリッシュ法、といった具合です。もちろん、これらを組み合わせる高度なレシピもありますが、まずはこの基準で選んでみると失敗が少なくなります。
オーバーナイト法(低温長時間発酵)との兼ね合い
最近人気の「オーバーナイト法(生地をこねてすぐに冷蔵庫で一晩発酵させる方法)」と老麺法は、非常に相性が良いです。というか、老麺法自体が一種のオーバーナイト法を含んでいるとも言えます。オーバーナイトで作る生地に、さらに老麺を加えることも可能です。そうすると、発酵時間は短くても、まるで数日間熟成させたようなプロ級の味になります。「時間はかけられないけど美味しいパンが食べたい」という時こそ、冷凍庫にストックしておいた老麺の出番です。
老麺とはパンを美味しくするひと手間!まとめ

老麺とは、単なる「古い生地」ではなく、パンに命を吹き込む「旨味の素」であることがお分かりいただけたでしょうか。手間がかかりそうに見えて、実は材料を混ぜて冷蔵庫に入れておくだけ。たったそれだけの作業で、いつものパンが劇的に美味しく進化します。
風味豊かで、しっとりと柔らかく、翌日も美味しい。そんな理想のパンに近づくために、ぜひ一度、老麺作りを試してみてください。最初は粉100gの少量からスタートし、その香りの違いを実感してみましょう。一度その魅力を知ってしまえば、もう老麺なしのパン作りには戻れなくなるかもしれません。



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